名前のつかない感情は私を自由にしてくれるのか

雑記
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こんにちは、安納かる(@caru_unknown)でございます。

 

ブログにしろ、私は常に自分自身と向き合うことを迫られています。私自身から。

自分の好きなことを書けるブログですが、言うてもそうそう続きはしません。好きなことってのも限りがあるし、記事数でイコールできるものでもないし、感情の問題だし。

好きなことならいくらでも書けるというのは、神に選ばれし人です。

神に嫌われし人間の私は、無理から書くのですが、そんなことを続けているうちに書くのが苦痛になってきます。

だって無理して書いてるんだもん。

 

苦痛なものはしたくありません。だからある日ぷっつりと切れて、そこで終わってしまうものですが、それではなんだかつまらない話ではないですか。

 

ですからやっぱり無理から書くのです。

自分の表面だけでない、あらゆる感情を総動員させて、言葉に置き換える。私という人を使うには、感情の奥底を覗かなくてはなりません。

 

自分の思いつかなかった感情、見たくなかった感情、汚水のように溜まった感情の中に飛び込んでいくのです。

 

そこには説明のつかない感情が渦巻いているのですが、それを体感できるのは私自身です。

 

とてもつらい作業ですが、楽しいからと言って良きものが生まれるとは限りません。というか、見ている人にとっては、作った人間が楽しかったか楽しくなかったかなんてどうでもいいのです。

 

(見ている人が楽しい思いをしているか、何か得るものがあったかどうかが重要なのです。)

 

逆に、つらい思いをしたからといってスバラシイものができるわけでもありません。

残酷なはなしです。

 

どっちにしろ良いものができるかどうか分からないなら、楽しく書いたらいいじゃないかという考え方もできますが、じゃあ、楽しいことってブログを書くことだけじゃなくて、ほかにもたくさんあるよね?って話になってきます。

 

趣味の読書だとか観劇だとか、山登りだとか、食べることも好きだし、それだけを楽しんでいればいいのです。

 

でも私はブログを書いています。

何のために? お金のためだとか、文章がうまくなりたいからだとか、依存先を増やすためにだとか、です。

 

ですから、楽しいからだけではないのです。

 

そもそも楽しいということに重点を置いてしまうと、心ががんじがらめになってしまいます。楽しくないといけない、というふうにね。

 

感情というものは自由ですが、自由というのは少し不便です。

 

つらくてもいいから、何かを手にするまで続けたい。お金かもしれないし、技術かもしれないし、居場所かもしれないし。

 

 

そういうわけで、今回はブログ記事のセオリーを破って思いつくままに綴りました。

なんや暗いなぁ~!!

おわり。

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